ポルシェ・カイエン:華麗なる大ヒットの影で語られない歴史

顧客開発事例として有名すぎるエピソードにも、不都合な真実がある
Yushi Sawa / poe 2024.10.29
読者限定

今回取り上げるのはポルシェ。具体的には、SUVのポルシェ・カイエンにまつわる価格設定について。ポルシェと言えば長らくスポーツカーとして有名だったものの、最近ではよく見かけるSUVのイメージをもつ人も多いのではないだろうか。

実際、カイエンの販売台数は同社のシンボルであったポルシェ911よりも多い。カイエンはポルシェ社初めてのSUVでありながら、発売から10年後には年間販売台数が約10万台に達し、ポルシェ911の販売台数の3倍を超える。ポルシェ社全体の販売台数(25万台)においても1/3を占めており、最も重要な車種に数えられる。しかし、それ以上にカイエンが取りざたされるのは、その利益率。事実、カイエンは業界で最も収益性の高い車種と言われており、2015年時点でポルシェの総利益の約半分を稼ぎ出したと言われている

当ニュースレターが「SaaSの価格設定についてのニュースレター」と銘打っておきながら、今回自動車を取り上げるのは、ネタが切れたからではなく、ちゃんと理由が2つある。1つ目に、カイエンの開発にまつわるエピソードは、価格設定が顧客開発の一部であることを端的に示すよい事例だから。価格設定はついつい「いくらにするか」という場面に焦点が当たりがちであるが、要らないものを安くしたところで売れないように、本質的には「売れるものを特定する」ためのプロセスの一つに過ぎない。カイエンは、そうした顧客開発と呼ばれるプロセスの正しい実践が、どれだけ収益性に影響するか示す事例の一つとして、一番有名かもしれない。というのもカイエンの開発エピソード自体は、価格業界(というのがあるのか不明だが)でおそらく一番有名と思われる本「Monetizing Innovation(邦題:最強の商品開発)」で取り上げられる有名な話。一方で、カイエンのエピソードは示唆に富む事例にも関わらず、同書以外の本や論文で紹介されることがほとんどない。そのためか分からないが、カイエンの価格設定エピソードは、ナイーブに受け止められすぎている。カイエンが入念な顧客リサーチから得られた示唆をもとに開発されて、ビジネス的に大成功した話は、事業開発に関わる人間としては励まされるものの、紹介された部分のみを鵜呑みにしては、スタートアップの提灯記事を読んで転職しようと思うのと同じくらいの神経の繊細さというべきだろう。もちろん、カイエンは素晴らしい顧客開発の事例ではあるが、ポルシェ社なりの事情があり、それなりに成功すべくして成功している。それらを理解した上で、励まされる事例として心に刻みたい、というのが今回取り上げた2つ目の理由だ。

ではさっそく、カイエンの開発エピソードから紹介していきたい。

ポルシェを取り巻く状況

カイエンは、ポルシェにとって初めてのスポーツカー以外の製品だった。新規事業の成否はリスクが高いにも関わらず、スポーツカーで有名だったポルシェが、SUVに進出した背景には1990年代初頭のポルシェの低迷がある。

ポルシェは今でこそ年間30万台以上を生産する自動車メーカーだが、1990年代初頭は主要な市場であったアメリカでの受注が経済低迷で激減していたことに加え、伝統的な生産プロセスの非効率さも相まって倒産の瀬戸際にあった。事実、1986年から1993年にかけて、ポルシェの販売台数は5万台以上から1万4000台に減少しており、いつ買収されてもおかしくない状況にあった。そうした状況にあってポルシェのCEOに就任したヴェンデリン・ヴィーデキング氏はまず、トヨタ、日産、BMWといった業界大手が採用していたリーン生産方式を、職人文化の強いポルシェにも苦労して導入することに成功する。次いで、業績回復策の一環として、ポルシェが長年独占してきたスポーツカーというニッチ市場から抜け出し、新しい製品を出すことを考え始めた。

ヴェンデリン・ヴィーデキング氏

ヴェンデリン・ヴィーデキング氏

2つ目に、SUV市場が明らかに指数関数的に成長し始めている兆しがあった。SUVが高級車として見られ始めただけでなく、実用性も兼ね備えていたため、一部の顧客にとっては単なる社会的ステータスを超えた現実的な車として選択肢に入ってくるようになった。この時期、長年SUVとして存在した車種(ex. レンジローバー)に加えて、メルセデスやBMWがSUV市場への参戦を始めており、予算をもっている顧客においては「ポルシェ911と高級SUVのどちらを購入するか」というような選択をする傾向にあった。こうした状況下にあって、スポーツカーを製造し続けてきたポルシェにとっては、SUV = スポーツ・ユーティリティー・ビークル(Sport Utility Vehicle)は新しい事業として有力な選択肢として映り、ポルシェ初のSUV「カイエン」を検討するに至った。

綿密な顧客調査

カイエンの開発はまず、「ポルシェがSUVを販売したら、どんな顧客がなぜ買うのか」を特定して、SUVがもたらすポテンシャルを推定するところから始まった。カイエンの発売の約4年前、ポルシェは主要な市場における潜在顧客を対象として、電話を使った初期調査を行った。この時点では細かいスペックや機能は決まっていなかったものの「ポルシェのSUV」というコンセプトが、誰に、どのような理由で買われる可能性があるのか、重要な示唆を得ることができた。例えば、多くの人々はポルシェブランドを好んでおり、スポーツカーであるポルシェ911を買うことを夢見るものの、趣味の車にすぎないため2台目として購入するには高すぎる。しかし、SUVであればファミリーカーとしてポルシェを選ぶことができるようになる。さらに、すでにポルシェ911を持っている人にとっても、ファミリーカーとして2台目を買う際に、他社の車ではなくポルシェを選ぶことができるようになる。またポルシェのブランドイメージと、ポルシェを好む顧客セグメントの購買力のおかげで、カイエンについては、他社のSUVよりも大幅なプレミアム価格を設定できそうなことが、この時期の初期調査で把握することができた。

次にポルシェは、カイエンに顧客が望む機能とはなにか特定するためのリサーチを行う。具体的には「自動車クリニック」と呼ばれる方法で顧客インタビューを行っている。この手法では、想定顧客を非公開の展示会に招待した上で、レンタルした競合他社のSUVと、ポルシェの非公開のSUVモデル車と並べて、車の評価をしてもらい、どういったオプションにいくら払う意欲があるか(Willingness to Pay = WTP)をヒアリングすることで、開発すべき機能とそうではない機能を取捨選択することが目的である。このヒアリングでは、カイエンを売れる車にするにあたって、いくつか重要なことが明らかになった。

非公開で行われる「<a href="https://u-site.jp/research/methods/car-clinic">自動車クリニック</a>」

非公開で行われる「自動車クリニック

例えばポルシェの開発チームは、顧客は当然スポーツカー並のエンジンを期待していると予想していたが、実際にヒアリングしてみるとエンジンのスペックに対してWTPは高くなかった。逆に、ポルシェがこれまでリリースしたことがないほどの、カップホルダーの多さやサイズに対して高いWTPが示された。ファミリーカーとしてならば、エンジン性能よりも、車内で子どもが飲み物を零さずに済むように、至るところにカップホルダーがあったほうが好まれるのだ。こうした発見は、ポルシェが長年スポーツカーメーカーとして培ってきた知見が、カイエンに携わった際にはある種のバイアスになっていたのに対して、顧客はファミリーカーとして使えるSUVをポルシェに期待していたことの違いから生まれている。また、SUVは舗装道路以外も走行するだろうからと、開発チームは頑丈な骨格(シャシー)やホイールの開発を想定したものの、想定顧客にヒアリングしたところ、顧客の大半が過ごすのは道路であって、オフロード走行はかなり珍しいことが分かり、不要な開発を回避することができた。こうしたヒアリングを通して、各機能案に対する顧客の反応を測定することで、「ポルシェのSUV」に期待されていることを明確にすることができ、カイエンの機能構成と価格帯を把握することができるようになった。

このプロセスにおける重要なステップは、どの機能を標準装備とし、どの機能をオプションとするかを決めることだった。最も重要なのは、それぞれの機能に対する顧客の価値とWTP。ほぼ全ての顧客が特定の機能に対して比較的高いWTPを持つ場合、ポルシェはその機能を標準装備するし、一部の顧客のみが支払う場合、それはオプションとなる。その結果、カイエンは、他社SUVよりもオプションリストが長い車となっているものの、同時にオプションから多くの利益を得ている。また、多くの機能をオプションとすることで、ベースモデルがオーバースペックで高価格になることを避けることができている。

最後にポルシェは、会社全体に与える影響、すなわち追加収益、利益、関連要因をシミュレートして、実際にリリースできるかどうかの検討を行った。具体的には、新製品が他のポルシェ車の販売を食い荒らす可能性があるかどうかを慎重に分析している。多くの消費者にとって自動車は1-2台しか購入しない商材であり、かつ買い替えサイクルも長い。カイエンが、これまでの既存製品の収益にどの程度影響するか試算した結果、 カイエンはカニバリが少なくポルシェの総収益が増加すると判断した。

本来であれば、カイエンのエピソード紹介はここで終わることが多い。綿密な顧客調査と価格設定を行ったカイエンは大ヒット、ポルシェの収益率を大きく改善した、と締めくくり、価格設定とその準備に割く重要性を強調する。それはそれで正しいものの、成功事例をただ読んだだけでは、再現することは難しい。ここから先は、なぜポルシェがカイエンを成功させることができたのか、語られない背景を紹介する。

この記事は無料で続きを読めます

続きは、4091文字あります。
  • コンサルとして蓄えた自動車への洞察:ポルシェ・エンジニアリング・サービス
  • 華々しい成功?
  • カイエンから学ぶべきこと
  • ご購読ありがとうございます🚀

すでに登録された方はこちら

読者限定
DocuSign:コモディティ化危機一髪
読者限定
Zoom:オプションで複雑化した料金表の大掃除
読者限定
百戦錬磨のヤン・パスターナック氏 :GoToMeeting編
読者限定
Chili Piper:価格最適化へのホットな道のり
読者限定
何が優れたバリューメトリックたらしめるのか
読者限定
訴訟支援SaaS Logikcull:初期価格設定の失敗とリベンジマッ...
読者限定
Nosto:フィンランドAI SaaSの雄 完全従量課金からの進化
読者限定
プロダクト分析SaaSの先駆者Mixpanel 復活にむけた価格改定